8日のお薬師さん、急遽不参加としてしまい申し訳ありません。
3.11の時も不安を感じましたが、あの時はどちらかと言うと(私が感じた揺れが自分にとっては大きな害を及ぼさなかったからかもしれないのですが)周りがどうなっているかわからない、そして自分や家族が無事であると伝えたくても伝えられないもどかしさが強かったかな、と思います。
電気がなかなか回復しない中、
「古川警察署あたりは電気がついたようだ」
「岩出山や鳴子も(電気が)ついたらしい」
「加美も昨日ついたらしい」
などなど、口伝えで聞く情報に
「何故うちの地域はまだなの…」
と非常に心細くなったものです。
携帯の基地局が復活した&携帯電話の通話規制が解除されたので16日にブログ記事UPできたんですけどね、自宅では電波状態が悪く圏外だったんです(´・ω・`)
その時はまだ徒歩15分ほどの役場にてくてく歩いていき、充電させてもらい、その間に受け取れなかったメールをどさどさ受信して返信して…あと留守電サービスを聞いて通話。
…とひと通りすますと充電が心もとなくなるので、また充電しに行くというorz
(乾電池式の充電器はあったし、いくつか予備電池あったんだけどあっという間になくなるとかもうね)
情報をやりとりできるとわかっただけでもちょっと落ち着きました。
自分の無事や、自宅周辺の情報を伝えられ、逆に知人の無事や周りの被害の様子を知れた…
でも、そのための手段が携帯しかなく&充電する手段が…というのがじわじわストレスになりました。
電気がつかずに1週間目の夜(17日)、すごく寂しくなって寝袋の中で泣くとか…
そんな状態だったので、18日の明け方目を覚ましたときに窓の外で街灯が復活した事に気づいたときに思わずガッツポーズしてしまった自分がいます(苦笑)
ガソリン不足の状態も、ストレスでしたね。
公共交通機関があまり充実しているわけではないので、車を使って移動したり、仕事に行ったりする事が日常茶飯事でしたから。
これも先月末あたりにようやく緩和されて、一段落してましたから…
そういう、とりあえず日常が戻りつつあったときに7日の地震。
この日ははんこの納品と、依頼された物資を届けに仙台に。
夕ごはんごちそうになって、いろいろ3.11の時の話とかして、22時ころに仙台を出て、23時ころに帰宅。
帰宅してすぐお風呂に入ろうか…でもその前に明日の準備してからか…
などと準備してたら、あの余震です(´;ω;`)
揺れ始めのときにカッターを持っていたのですが念のため筆入れにすぽんと入れ…
と、ここでそれをやってて良かったです(´;ω;`) それしてなかったら怪我してたかも。
自分の部屋は2階なので、震度6弱がそれ以上に感じて怖かった…
しかも、揺れの質が3.11と違って縦揺れが多めだったように感じ、家が本気で壊れるんじゃないかと思って。
電気がふわふわわ~んしゅ~~~~~って感じに消えて、そこから後も揺れ続けるからもう…
思わずなんか「ちょっとー!」って叫んでしまった私…何がちょっとなんだ…と今になれば思うけれど。
直後、近所に救急車が止まってさらに心臓バクバク…
どうやら大崎市で4.7の余震で唯一重症を負った方、らしい…(詳細不明)
3.11は昼間で、外出先で、ある程度外面良く…というか緊張感があったせいか思ったより平静でした。
でも、4.7は夜で、自室で、ゆるーいリラックス状態だったので余計に精神的にガツンと来たのかも知れないです。
それともう一つ、3.11ではストレスがたまりつつもなんとかやり過ごしていた(無意識の海に封j込めていた)ものが、4.7で蓋が開かれてしまったという側面もあるんではないかとも思っています。
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